建長寺の歴史

建長寺境内絵図

建長寺境内絵図

建長寺往古仏殿図

建長寺往古仏殿図

寺の開創

 建長7年(1255)2月に造られた梵鐘(国宝)に「建長禅寺」とあるように、当寺はわが国で最初に”禅寺”と称した中国宋朝風の臨済禅だけを修行する専門道場である。およそ、中世を通じての寺院は、1か寺で天台宗と真言宗・浄土宗などを兼ねている例が多かったから、建長寺のような1寺1宗という浄刹はたいへん珍しかったといえる。
しかし、寺が建てられる前の寺域は、地獄谷とよばれた罪人の処刑場になっていたと伝えられていた。この谷に地蔵菩薩を本尊とする伽羅陀山心平寺という仏堂が建っていたが、建長寺を開創するにさいし、時頼によって堂は巨福呂坂に移され、現在は横浜三渓園に移設されている。その本尊と伝える地蔵菩薩坐像が、千体地蔵にかこまれて建長寺仏殿内に安置されている。

開山の周辺

 開山蘭渓道隆禅師は、寛元4年(1246)33歳で来朝しているから建長寺入山は40歳頃と思われる。師は中国宋朝の禅風をそのまま導入し、大変な意気込みで百人余に及ぶ修行僧たちを指導している。自筆の国宝「法語規則」により、厳しい修行の内容が知ることができる。
弘長2年(1262)師は京都建仁寺に移り、そのあとに中国僧兀庵普寧が2世に迎えられたが翌年開基時頼公が没すると二年後の文永2年母国宋へ帰ってしまった。これにより開山禅師は再び建長寺に住することとなった。いわゆる蒙古襲来の折には間諜の疑いを持たれたらしく2度にわたり甲斐等に流されることもあった。
弘安元年(1278)には三度建長寺に住したが、同年7月24日、開山は建長寺で示寂する。大覚禅師を思慕した北条時宗が、中国から無学祖元(仏光国師)を招請して円覚寺を建立したのは建長寺開創から29年後のことである。無学和尚の活躍で鎌倉禅は一層の発展をみたのであった。

諸堂の整備

 建長寺は建長5年に落慶され、建長7年には梵鐘が鋳造されたが大規模な伽藍の整備にはさらに長期の歳月が必要とされた。例えば総門と法堂の創建は仏殿建立から20年後、当初から計画されていたとされる三門は、仏殿造営から28年後の弘安4年(1281)と考えられている。
この往古の荘厳な姿を今に偲ばせているのが元弘元年(1331)につくられた「建長寺指図」(設計図)の写しである。総門・三門・仏殿・法堂などの主要な建物がほぼ直線上にならび、庫院(庫裏)と僧堂(修行道場)とが三門から仏殿に達する回廊の左右にあり、浴室と西浄(東司)も三門前の左右に造られるなど、左右対称の大陸的な配置法であったことはわかる。中国杭州にある五山第一の径山万寿禅寺を模して、これを鎌倉の地に写しだそうという伽藍配置だったのである。
ただし、現在の諸堂の配置は創建当初の姿をそのまま伝えておらず、堂の位置が変わったり縮小されたりした形跡が最近の発掘調査でも確認されるところである。

災害と復興、そして近現代

 建長寺の開創は、鎌倉時代の鎌倉を、禅宗の創立と禅宗文化の発進の地として、最もさかんで活気に満ちあふれた町を現出することになった。因みに、建長寺が最も盛んだったころの様子は僧侶約1000人、寺領も膨大で末寺も400以上、塔頭49院を数えた。しかし荘厳な伽藍をかまえた建長寺も、永い歴史を刻む間、たびたびの罹災で古い建物はことごとく焼失した。それでも建長寺は数多くの被災に見舞われながらも鎌倉幕府の強力な支援のもとに相応の復興をみていたが、大檀那である北条氏(鎌倉幕府)が元弘3年(1333)に滅亡すると大きな痛手となった。それでも室町幕府の鎌倉府がそれなりに機能を果たしていた室町初期頃は再興するだけの余力を残していたが、室町末期には伽藍の復興もできなかったようである。
天正19年(1591)徳川家康は寺領約400石を寄進したが、その額は円覚寺・東慶寺などよりも少なく、最盛期の建長寺の状態とはもはや比較することができなくなっていた。それでも江戸幕府の禅宗政策は室町幕府の施策を踏襲したこと、家康に重用された金地院の以心崇伝(本光国師)が大覚禅師の法系につらなる僧であり、また建長寺の住山に入ったこともあって江戸幕府の保護のもと五山第一の寺格にふさわしい景観がいじされた。そして、再嶽元良・海門元東・万拙碩宜・真浄元苗ら諸師を始めとする江戸時代に建長寺住持に任じられた多くの禅僧たちの努力も特筆されるものである。
現在の大本山建長寺は平成に入り大庫裏・得月楼、そして僧堂大徹堂などの再興を果たし、その姿を今に伝えている。(冊子 建長寺より)

建長寺開山大覚禅師

開山大覚禅師

開山大覚禅師

重文 大覚禅師墓塔

重文 大覚禅師墓塔

開山大覚禅師は中国西蜀淅江省に生まれた。名は道隆、蘭渓と号した。
十三歳のとき中国中央部にある成都大慈寺に入って出家、修行のため 諸々を遊学した。のちに陽山にいたり、臨済宗松源派の無明惠性禅師について嗣法した。そのころ中国に修行に来ていた月翁智鏡と出会い、日本の事情を聞いて からは日本に渡る志を強くしたという。禅師は淳祐六年(1246)筑前博多に着き、一旦同地の円覚寺にとどまり、翌宝治元年に知友智鏡をたよって泉涌寺来 迎院に入った。智鏡は旧仏教で固められている京都では禅師の活躍の場が少ないと考えたのであろう、鎌倉へ下向するよう勧めた。こうして禅師は鎌倉の地を踏 むことになった。日本に来てから三年後のことと思われる。時に三十六歳。
鎌倉に来た禅師はまず、寿福寺におもむき大歇禅師に参じた。これを知った執権北条時頼は禅師の居を大船常楽寺にうつし、軍務の暇を見ては禅師の元を訪れ道を問うのだった。そして、「常楽寺有一百来僧」というように多くの僧侶が禅師のもとに参じるようになる。
そして時頼は建長五年 (1253)禅師を請して開山説法を乞うた。開堂説法には関東の学徒が多く集まり佇聴したという。こうして、純粋な禅宗をもとに大禅院がかまえられたが、 その功績は主として大覚禅師に負っているといえる。入寺した禅師は、禅林としてのきびしい規式をもうけ、作法を厳重にして門弟をいましめた。開山みずから 書いた規則(法語規則)はいまも国宝としてのこっている。 禅師は鎌倉に十三年いて、弘長二年(1262)京都建仁寺にうつり、その後また鎌倉に戻ったが 叡山僧徒の反抗にあって二回にわたり甲斐に配流されたりした。
禅師はのち弘安元年(1278)四月、建長寺に再住、そして七月二十四日、衆に偈を示して示寂した。ときに六十六歳。
偈 用翳晴術 三十余年 打翻筋斗 地転天旋
後世におくり名された大覚禅師の号は、わが国で最初の禅師号である。

無限の清風

鎌倉にある建長寺を開山された
大覚禅師が好んだ言葉

「福山は揮(すべ)て松関を掩(と)じず 無限の清風来たりて未だ已(や)まず」

一切の制「限」を「無」くし
ただ「清」らかな「風」のみを感じれば
心は開放される
修行者にも一般の人にも 老若男女
あらゆる人に対して
福山はいつでも門戸を開いている

という意味です

来るものは拒まず 去るものは追わず
たとえ「自分には合わない」と去る者がいても引き留めることはしません

私たちの周りにも
この「無限の清風」が吹いています
それは偶然の出会いや出来事となって
現れます
でも 心の窓を閉じると入って来ません
大切なご縁も気づかずに通り過ぎてしまいます

幸せは開かれた心にのみ舞い降ります
今の世の中
メール SNS 携帯電話 
コンピューター ヘッドフォン
など 心は常に何かに集中しています

時には必要かもしれませんが
「集中」が「囚われ」や「依存」に
陥りやすくなります

閉ざされた心に無限の清風は入れません

現代では意識して依存から離れ
囚われた心を解き放つ時間が必要です
自分の心を開放し
多くを受け止められる人になりたい
心の窓を開いて「無限の清風」を
感じてみては如何でしょうか

禅について

禅について

そもそも「禅」という言葉はサンスクリット語のディヤーナの音を漢字にして「禅那」としたものから那がとれて禅と呼ぶようになりました。要するに静かに坐って深く思慮することといわれていて、お釈迦様が到達された悟りの境地に達するための修行のことをいいます。少しやさしく言うとそれぞれの人が本来持っている清らかな心、本当の自分を見つけ出すことです。
禅の雲水(修行僧)たちはそれを究めていくために目の前のことをひたすら一生懸命行ないます。お経を誦むときは誦むことに一生懸命、境内を掃くときには一心に掃きます。それらを繰り返すと余分なことを考える間がなくなり、心が研ぎ澄まされていきとらわれのない心になっていきます。雲水たちの托鉢や作務、坐禅といったことはそのための修行です。
現在でも各地の僧堂(道場)では厳しい修行が行なわれています。そこからそれぞれのお寺に入った和尚たちによってその宗風は受け継がれています。

坐禅のすすめ

坐禅のすすめ

気持ちと姿勢をまっすぐにして静かに坐る。ただ坐るだけではありますが、実際にやってみると気分がすがすがしくなっていることを感じるのではないでしょうか?
坐禅は禅宗の基本的な修行でお釈迦様も坐禅(禅定)を実践し悟りに至ったといわれています。いきなり高度なレベルを目指すことは困難ですが、静かに坐ることは可能であると思います。
皆さんは世間にいると様々に忙しく動き回って何が何だかわからなくなっていることがないでしょうか?そういうときに1度止まって(坐って)、自分を見つめ直してみてはいかがでしょう。日常では感情的に流されている自分を客観的にとらえ、奥にいる自己の存在も見つかられるのではないかと思います。
難しいことを考えず、まずは坐ってみましょう。

建長寺開基北条時頼公

重文 北条時頼坐像

重文 北条時頼坐像
本山の開基で、凛とした若き執権北条時頼の
狩衣指貫烏帽子姿を活写した鎌倉時代後期の
肖像彫刻の優品である。

時頼は時氏の次男、泰時の孫にあたる。安貞元年(1227年)5月14日誕生。母は安達景盛の娘で松下禅尼といった。
時頼は祖父泰時の善政を受けて、よく政を治めたので、名君のほまれが高い。建長4年8月には今の長谷に全銅の大仏を鋳造し始め、そして翌5年(1253年)11月には、建長寺を創建して供養を行った。それらの事績は今に伝えられている。
建長寺の供養が終わって3年後(1256年)の11月、時頼は執権職を重時の子長時に譲って出家し最明寺入道と称した。このとき、子・時宗はまだ 7歳。そしてこれより7年後の弘長3年(1263年)11月22日、時頼は最明寺の北亭で世を去った。まだ37歳の若さであった。

建長寺物語